法と教育学会・第4回学術大会 参加報告

 長く更新をしていなかった本ブログですが,2013年9月1日に武蔵野大学・有明キャンパスで行われた方と教育学会・第4回学術大会に参加してきましたので,その報告を本ブログでさせていただきます。

 今回の大会の全体テーマは「法教育と道徳教育の対話」でしたが,パネルディスカッションも「法教育と道徳教育の対話」と題して,吉田俊弘先生(大正大学)及び橋本康弘先生(福井大学)の司会の下,4名のパネリストとコメンテーターが順に発言する形式で進められました。私は,コメンテーターとしてこのパネルディスカッションに参加させていただく機会を得ました。

 当日のディスカッションの概要について,備忘と勉強のためにも以下に報告させて頂きます。なお,以下は当日配布されたレジュメ等の資料及び記憶をもとに私が後日再構成したレポートであり,各報告をされた先生の発言を正確に再現するものではなく,不正確な部分や誤解が多々あり得ることについてご了承,ご容赦ください(当日のパネルディスカッションの正確な内容については,後日「法と教育」誌に掲載される予定ですので,そちらをご参照ください。)。

堺正之先生の報告

 最初に道徳教育の研究者である福岡教育大学の堺正之先生が「道徳教育における『法やきまりを守ること』の位置づけ」と題して報告されました。

はじめに

 堺先生と法教育との関わりは,2004年に開催された日本道徳教育方法学会でのシンポジウムに遡ります。堺先生が司会を務めた「規則の意味を考える道徳授業」と題するシンポジウムに登壇した江口勇治教授(筑波大学)は,法教育を通じた「法規範を基盤にした善・悪、公正・不正などの価値判断や行為のための法的な見方や考え方の育成」の必要性を強調しました。堺先生は,法教育によって児童生徒にこのような資質が育ったときに,道徳の授業の側はこのままでよいのか,道徳は子どもたちの問題解決に役立っているのかという問題意識が生まれたといいます。堺先生自身も,シンポジウムの前に発表した「法と道徳の関係性に関する一考察――道徳教育と法教育との対話」という論文で,法を固定的に捉える一方で,それとは異なる「道徳的」判断の独自性を生徒に見出させようとするモラルジレンマ授業の道徳授業について批判的検討を行っています。

 ここには,法と道徳の対立・対比を過度に強調することへの堺先生の疑問が現れているといえます。

日本の道徳教育に見られる二つの「主義」

 次に,堺先生は,日本の道徳教育に歴史的に見られる二つの「主義」として,「全面主義」と「価値主義」を挙げます。「全面主義」とは,道徳教育は,道徳の時間だけではなく,学校における教育活動の全体を通じて行うとするものです。道徳教育は,「教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神」に基づいて行われるものであり,道徳教育の目標は学校教育そのものの目標ともいえます。

 このような「全面主義」から堺先生が導くのは,道徳教育が,他の教科との関係で特別・特殊な教育ではないということです。堺先生は,道徳教材として用いられて科学論争から道徳教育批判にも発展した『水からの伝言』(水に言葉をかけると結晶の形がその言葉に影響されると説く。)の例を取り上げて,道徳教育であるからといって教科で学ぶ知識や科学的真理と矛盾したことを教えて良いということにはならないということを,「全面主義」の含意として説いています。

 もう一つの「価値主義」とは,「親切」「友情」「家族愛」等の道徳的価値を個別化し,その序列化は個々人に委ねながらも,普遍的な個々の「価値」を児童生徒に指導し受け止めさせることで道徳性の育成が図られると考える立場をいいます。堺先生によれば,このような考え方は,日本の道徳教育を「抑制的」なものとしており,1989年の学習指導要領改訂により道徳の内容項目が「四つの視点」(「1.主として自分自身に関すること」「2.主として他の人とのかかわりに関すること」「3.主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること」「4.主として集団や社会とのかかわりに関すること」)により分類・整理された際も,価値の序列化を図るような誤解を招く(価値の)「構造化」という表現は慎重に避けられたことが指摘されました。

2008年の小学校学習指導要領改訂

 以上のような特徴を持つ道徳教育について,2008年の学習指導要領改訂ではどのような具体的な変化が見られたでしょうか。2007年の改正学校教育法では,義務教育の目標として「学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」が規定されました。これを受けて,道徳の指導要領にも変更が加えられています。

 低学年においては,内容項目の4-(1)において,「約束やきまりを守り」という部分の記述が前に出たことが指摘されます。また,高学年においては,従来4-(2)に位置づけられていた「公徳心をもって法やきまりを守り,自他の権利を大切にし進んで義務を果たす」が4-(1)に移されています。ここでは,「社会生活を送る上で人間として持つべき最低限の規範意識」を,低学年から「確実に身に付けさせる」(2008年の中央教育審議会答申中の言葉)ことが強調されているといえます。

 このような変更点を踏まえた今後の道徳教育の指導方法上の課題として,堺先生は,1)上記のような道徳教育が学校だけでなく家庭・地域を含む社会全体の要請でもあることを理解させること,2)きまりを守ることを自律と相反するものとしてではなく,むしろ軌を一にするものとして考えること,3)人間は「相手の痛み」を感じとり、何とかしてあげたいと思うものであり、そのような関係の連鎖の中で人間社会が成り立っているとの見方(教育学者である村井実のいう「『訴え』的人間像」)を繰り返し確認すること,4)自分たちできまりを作って守る活動なども,これまで以上に積極的に取り組むこと,5)法教育の視点(法の意義についての理解,法規範に基づく善悪の判断,法的な価値の尊重)を導入することの5つのポイントを挙げます。このうち「『訴え』的人間像」というのが難しいですが,道徳的原理・原則がなぜ大切であるかを問う場合には「あるべき,望ましい人間の像」に遡って根拠付ける必要があり,その際のモデルとなるのが上記のような「『訴え』的人間像」であるという趣旨と解されます(筆者において,小寺正一・藤永芳純偏『三訂道徳教育を学ぶ人のために』〔世界思想社,2009年〕216-7頁を参照しました。)。道徳教育においては,道徳的原理・原則の内容やその適用を学ぶだけではなく,ときには原理・原則を問い直し,創り変えていくことも必要であり,その際には原理・原則の基礎にある人間・人間社会のあり方を常に振り返る必要があるというものと思います。

道徳の時間の課題~法教育との連携への期待

 上記で道徳教育の課題の一つとして法教育の視点の導入が挙げられましたが,具体的にはどのようなかたちでの道徳と法教育との連携が考えられるでしょうか。

 堺先生は,道徳教育に用いられているいくつかの読み物資料を例に挙げて,そこに見られる特徴として,公共の場におけるゴミ問題などを題材として「公徳心」を考えさせるものが多いが,そこでは各人の善い行いの心がけやマナーが重視されており,教材の配列からはルールや法律は少ない方がよいというメッセージが間接的に発せられているようにも見えることを指摘します。また,きまりを「公正さ」という視点から考えさせるような法的思考に関わる資料も少数見られるものの,「きまりを作る」手続については言及がないことも指摘します。堺先生は,このような道徳教育の難点を解消するため,「切り口」を明確にした長期的な指導計画の作成が望まれるとしており,その際に法教育の視点を導入することの有益性を示唆しています。

 また,道徳教育の課題として,道徳の時間が「心情的感性教育」に走ってしまったために,社会課題を解決していこうとする判断力や行動力に直結していないとの指摘(石堂常世「子どもにおける規範意識醸成の課題―今日的困難性の中の教育可能性を求めて―」)を受けて,堺先生は,このような「心情主義」は子どもたちのニーズに合わない部分があるとして,そのようなミスマッチを克服するためには,教育課程における「道徳」の位置づけを転換する荒療治ではなく,これまでの道徳教育の実績を踏まえながら,個々の内容項目の示し方やその特質に応じた適切な教材や指導法を開発していくことによる改善が適切であるとしています。ここでは,道徳教育の全面的な「法教育化」というような大転換ではなく,道徳教育と法教育・社会科教育との間の適切な役割分担,道徳教育の内容項目毎の特質に応じた法教育的視点の導入(の是非)というようなかたちで,道徳教育と法教育が連携していく方向性が示唆されているといえます。

吉村功太郎先生の報告

 宮崎大学の吉村功太郎先生からは,「法教育と道徳教育の対話(社会科教育の立場から)――英国のシティズンシップ教育を中心に」と題した報告がなされました。

社会科教育の立場から――社会科教育の目的

 吉村先生は,わが国においては,学校教育全体の目標としての「民主主義社会の主権者としての資質の育成」は社会科が主として担っているところ,この市民性育成という目的ゆえに,社会科は法や道徳とも何らかの関連性を意識することになるとします。「民主主義社会の主権者としての資質の育成」という目標は,英国のシティズンシップ教育にも共通します。そして,シティズンシップ教育においては,その内容構成において道徳的思考との関連性が指摘されており,そこにおける法的思考と道徳的思考の関係や,民主主義社会の市民としての資質育成との関係を検討することは,わが国の社会科教育のあり方を考える上でも有益であると考えられます。

英国におけるナショナルカリキュラムとシティズンシップ教育

 もっとも,吉村先生は,英国(本報告が対象にするのはイングランド)の状況を単純に日本と比較すること難しいとします。わが国とは異なり,英国では1988年まで全国共通のカリキュラムは存在せず,現在のナショナルカリキュラムの内容も極めてシンプルなものとなっています。また,教科という枠組みも日本のような強固なものではなく,内容を他教科に組み込んだり教科横断的に内容を扱ったりすること(クロス・カリキュラム)も認められています。このような柔軟なナショナルカリキュラムの下で多様な教育が行われている英国において,一口にシティズンシップ教育について語ることは用意ではありません。また,このようなシティズンシップ教育の多様性を背景に,論者が自己に都合の良いようにシティズンシップ教育を援用する傾向も見られます。そこで,本報告の検討対象とする「シティズンシップ教育」は,新教科「シティズンシップ」の設立の基となった,1988年のいわゆる「クリック・レポート」及び2008年改訂の基盤となった「アジェグボ・レポート」,そしてこれらに沿って編集されたテキストブックに限るものとされます。

 英国において上記のようなシティズンシップ教育が教科として必修化された背景としては,若者の投票率低下や政治的無関心による民主主義の危機,麻薬や暴力,非行などの若者の問題,テロとの闘いと市民的人権保障,EUへの統合などを背景としたナショナル・アイデンティティと市民性の関係性の問題などが指摘されます。これらの問題状況に対して,伝統的な教育で対応することは難しく,また社会の教育力に期待できないとの判断から,抵抗も見られたものの教科としてシティズンシップが導入されたものです。

英国シティズンシップ教育の目的・内容・方法

 クリック・レポートは,シティズンシップ教育において育成すべき市民像を「informed and active citizen(見識のある,活動的な市民)」であるとしています。ここでは,従来の政治・経済等の制度に関する知識獲得型の学習(civics)では不十分であり,知識・技能を活用した積極的参加により民主主義社会を担う市民の育成が志向されていますが,ナチスへの反省から単にactiveなだけではなくinformedな市民でなければならないとされていることも指摘されます。

 上記のような考えを反映して,シティズンシップのカリキュラムは,当初「社会的・倫理的責任」,「コミュニティへの関わり・参加」「政治的リテラシー・素養」という3つの柱から構成されており,これにアジェグボ・レポートにより「アイデンティティと多様性:英国でともに生きること」という4つ目の柱が加えられて現在の構成となっています。

 カリキュラムに沿った具体的な教材の例として,This is citizenshipというテキストブックから,「ホフ星の学校へ行きたいですか」という教材が紹介されます。これは,ホフ星という仮想の星における学校のルールが公正かどうかを判断させるというもので,架空の事例と実際の自分たちの学校の校則との比較対照による検討を通じて,社会制度やルールの公正さを考えさせるものとなっています。また,Citizen and Societyというテキストブックからは,「平等は常に公平であるか」という単元が例に取り上げられます。ここでは,平等の様々な形態を理解することを目的として,遺伝子工学に基づく「デザイナーベイビー」や,スポーツにおける平等,障害者差別禁止法に関する資料が挙げられますが,単元のまとめが「あなた自身の考えで答えなさい。世界をより平等な所にするために最も役立つことは何ですか。……あなたの考えを書き,クラスのみんなに見せなさい」とされているように,平等に関する問題について異論の無い「正解」はなく,人によって考えが異なり得ること,したがって皆で考え続けることが重要であるということへの気づきを重視している点が特徴的であるといえます。平等のような民主的諸価値を教え込むのではなく,主体的に学び選択させることを目指すものといえます。

 以上のように,英国のシティズンシップ教育は,民主主義社会の諸価値を前提として,その諸価値に基づく判断と行動ができるような市民の育成を目指していますが,吉村先生は,その教育方法の特徴として,民主主義社会の諸価値を直接的,誘導的に教え込むのではなく,社会問題を考える中で主体的に選び取り,主体的に考えて判断・行動していくための基盤として受け入れることを期待していることを指摘します。このような特徴を有するシティズンシップ教育において,子どもたちが民主主義社会の諸価値を必ず選択するという保障があるわけではありませんが,他方で,民主主義社会の諸価値を無批判的に教え込むことは民主主義社会の諸価値に反するという「民主主義のパラドックス」の問題も英国の教育研究者の間でも議論されているようです。

英国シティズンシップ教育の特質―道徳教育との関連

 最後に,法と道徳という観点から英国のシティズンシップ教育を見ると,どのような特質が見えてくるでしょうか。吉村先生は,英国のシティズンシップ教育における「法」へのアプローチは,実定法を前提とする「法実証主義的」な考え方ではなく,法の前提にある民主主義社会の基本的諸価値に基づく「自然法主義的」な考え方に基づくものであるとしています。これは,英国シティズンシップ教育が,上記のとおり,具体的な社会問題に対する思考を通じて民主主義社会の諸価値を主体的・選択的に学習することを目指していることにも対応します。

また,英国シティズンシップ教育は,社会における他者との関係性にフォーカスしていることから,個人の人格形成を主とする「個人道徳」ではなく,他者との関係性に関する「社会道徳」に専念しようとする傾向が強く,この点では,個人の内心にまで踏み込むことに慎重な日本の社会科教育とも親和性が見られるとされます。

 以上の考察の上で,吉村先生は,民主主義社会の担い手である市民としての資質育成を目的とするのであれば,英国シティズンシップ教育も日本の社会科教育も「社会道徳」と無関係ではいられず,また民主主義そのものを正当化する根拠として「自然法主義的」な考え方に依拠せざるを得ないのではないかと結んでいます。

三浦清孝先生の報告

 京都市岩倉北小学校の三浦清孝先生は「小学校法教育の授業を通して」と題して,前任校である京都市紫竹小学校での法教育実践を中心にご報告されました。

実際に行われた授業の内容は,「地域行事のエコフェスタに出品するエコバッグの価格を決める」という題材をもとに,小学6年生の児童にロールプレイを含めた意見交換をさせた上で,様々な立場,利害,価値観,理念などの対立を整理しつつ最終的な「価格」決定を目指すというものです。

 三浦先生は,本授業から学んだこととして,1)法教育の授業では学級や集団の「紛争」を直接扱わないこと,2)児童に「役割」を与え,それを演じる話合い活動が有効であること,3)話し合いの準備の有効性を実感することができる,という3点を挙げます。このうち,1と2は相互に関係するところですが,三浦先生は,児童が直接の当事者となる現実の紛争を扱う場合,児童は冷静な話し合いができず,友達間の力関係に流されたり異なる意見や批判を理解しようとしなかったりすることもあり,「紛争を解決しようとする力」を身に付けるという法教育の目標を達成することが難しいということを指摘します。授業を通じてこのような力を身に付けさせるためには,学ぶ場を意図的に設定することが大切であり,利害・価値対立が問題となるような架空の場面を設定した上で,更にロールプレイの手法を採り入ることにより,児童の話し合いが感情的になる原因を取り除き,お互いの立場を理解していこうとする話し合い活動を促すことができるとしています。

 法教育授業に弁護士が参画する意義についても,2つのポイントが指摘されます。一つは,弁護士が話し合いを支援することにより,「対立」から「理解」・「合意」へと向かう話し合いの進め方を児童が深く学ぶことができるというメリットであり,もう一つは,小学校の児童の思考や発達段階を弁護士に理解してもらうことの重要性についてです。児童の実態や発達段階の理解なくして小学校の法教育の授業はあり得ず,弁護士が実際に授業の中で児童と接することで,よりよい法教育授業を考えることができるのではないかとされます。

 三浦先生は,3年間の法教育の研究や本授業後の意見交流,研究協議の中で見出した「授業のつくり方」のポイントを7つに整理しています。先に述べたところとも重なる部分もありますが,項目のみを掲げると次のとおりです。1)複数の利害や価値観が対立する場面を意図的に設定する,2)対立する利害や価値観は,正否がすぐに判断できないものを設定する,3)児童の身近な問題を扱うが,係争中の問題は扱わない,4)題材は「架空」の話として設定し,第三者としてロールプレイできるものとする。5)「司会」の立場を明確にし,他の役割を与えない,6)弁護士の役割を明確にする,7)授業の着地点(学び)を設定し,「話し合い活動の技能向上」の授業に特化しない。

 最後に三浦先生は,児童が自分たちの身の回りの問題について「主体的に考え,公正に判断し,行動する」ことを学ぶ授業が小学校の法教育授業であるとして,そのために児童の発達段階に応じて計画された授業を,単発的にではなく継続的に弁護士会と連携して取り組みを続けていきたいと締め括りました。

中平一義先生の報告

 パネリストの最後に,神奈川県厚木市立東名中学校の中平一義先生は,「法と道徳 中学校の現場から」と題して報告されました。

 中平先生は,「義務教育段階の子どもにとって,法と道徳の区別は曖昧であり,むしろ同一のものとして理解されている。高校生・大学生の段階でも必ずしも法と道徳の区別が明確ではないのが一般的傾向となっている」との指摘を受けて,法と道徳の区別と関連を学ぶことは現代社会を生きる上でも必要なものであるが,それを子どもが発達段階の中で学ぶ際に教育はどのような貢献ができるかという問題意識から,自身が中学校で「法と道徳」に関して学習する際に考慮している内容について説明されました。

 まず,法と道徳の類似点と相違点について,ルールとしての役割・機能(価値・利益の実現,利害・対立の調整,危険・害悪の排除)の面においては,法と道徳との間に類似点が見られるとします。他方で,ルールの構造においては,法と道徳(社会道徳)との間には,当事者の取り扱いや適用範囲,規律対象,権利義務の構造,制裁の有無の点で相違が見られるとします。

 このように,法と道徳は,その構造において相違するものではありますが,両者は完全に分離するものではなく,関係性を有している部分もあります。例えば,「人を殺してはいけない」という道徳と殺人罪という法のように,法の根底に道徳が存在するという場合もありますし,他方で,「車は左側通行」という法や,「お世話になっている人にあいさつをする」というような道徳においては,法と道徳とが無関係な場合もあります。しかし,中平先生においては,より重要な法と道徳の関係性は,道徳的価値と憲法的価値との間の関係性に見出されます。中平先生によれば,道徳的価値とは,自然発生的な,ある一定の範囲のなかで習慣や伝統が意識化されて自明の前提となったものであり,必ずしも一般化(普遍化)できないものであるとされます。これに対して,憲法的価値は,人為的で公共性を持つものであり,一定の共通の利益を目指した社会(国家)の意識の総体であるとされます。憲法的価値の具体的内容としては,個人の尊重や基本的人権などの(憲法典よりも上位にある)価値が挙げられます。

 社会科教育と道徳教育においては,以上のような内容をどのように生徒に伝えるのが良いでしょうか。社会科は実定法や社会の仕組みを学ぶもの,道徳は法や決まりなどに対する正しい態度,姿勢,価値観を学ぶ場と区別・分類する考え方もあるものの,中平先生は,「社会科と道徳の関係を捉え直すのが法教育」であると再定義した上で,上記のような法と道徳の関係性を踏まえた法教育のあり方を考えます。具体的には,「法と道徳」について学ぶ際には,法と道徳を混同することの問題(道徳を強制力のある法のように捉える可能性,法が及ばないところでは何をやってもかまわないと考える可能性)に留意することが必要ですし,他方で,「法は守るべき」という道徳の存在や,法も道徳も社会を形成する規範としての共通の役割を有することなど,両者の相互補完の関係性にも留意する必要があります。このような法と道徳との相互関連を踏まえると,社会科においては道徳を取り扱うことで法の特質がより浮かび上がるように,道徳教育においては法を扱うことで道徳の特質がより浮かび上がるようにというように,社会科と道徳教育で相互に関連性を持たせるようなかたちでの「法教育」を構想します。

 具体的な授業例として挙げられるのは「いじめ」問題を扱うものですが,道徳的視点からは「そもそも人を傷つけてはいけない」という規範に対して,「かわいそう」「本人が悲しんでいる」というような心情主義的なアプローチが考えられますが,法的な社会科の視点からは「諸個人の権利や社会の安全のために法が必要な場合がある」というように,法の必要性や意義を考える学習も考えられるとして,道徳と社会科の相互補完的な関係の構築が志向されています。

綱森コメント

 最後に,パネリストの方々のご報告を受けて,法教育に関わる弁護士として考えたところについて,綱森から若干のコメントをさせていただきました。

法教育の基礎にある考え方

 法教育の基礎にあるのは,各人が自ら追求すべき「幸福」(善き生き方)という価値と,権力をもって強制され得る法が実現すべき理念である「正義」という価値を区別した上で,「正義」については,「個々人の善き生き方を直接規律するものではなく,第一次的には自由平等な個人が相互にそれぞれの善き生き方を尊重・配慮しつつ共生するための公正な諸条件を確保実現する社会制度の在り方に関わるべき」(田中成明「法教育に期待されていること-道徳教育・公民教育への組み込みに当たって」ジュリスト1353号〔2008年〕31頁)ものとする,リベラル・デモクラシーの基礎にある(リベラリズムの)の考え方であると思います。

 このような考え方は,例えば,法務省「法教育研究会報告書」における「様々な考え方を持ち,多様な生き方を求める人々が,お互いの存在を承認し,多様な考え方や生き方を尊重しながら,共に協力して生きていくことのできる社会」である「自由で公正な社会」とそこにおける「共生のための相互尊重のルール」として特徴付けられる「法」という観念や,「高等学校学習指導要領解説公民編」における「幸福・正義・公正」の解説にも表れているといえます。

法教育と道徳教育の対話

 上記のような法教育の考え方を前提とした場合,法教育と道徳教育に関しては,次のようなことが指摘できるのではないかと思います。

 当然のことではありますが,公教育として行われる道徳教育が,特定の生き方(のみ)を「善い」ものとして押しつけるものであってはならないということです。これは,各自の「幸福」を追求する個人の平等な尊重・配慮という上記の基本的な考え方に反することになります。

 もっとも,このことは道徳的価値というものが一切認められないとか,各人の「幸福」追求が単なる趣味の問題であるということを意味するわけではありません。この点は,中平先生の指摘する,生徒が「法が及ばないところは何をやってもかまわないと考える可能性」という問題に関わりますが,法や正義に関わる法教育が伝えるべきメッセージは,「守られるべき様々な価値のうち,公共の力によって強行しうるのはこれだけです。あとはあなた自身の生き方と他者への説得や他者との自由な協力を通じて実現に努めて下さい」(井上達夫『他者への自由』〔創文社,1999年〕106頁)ということです。

 以上のことからすると,道徳教育のあり方は,守られるべきと考えられる道徳的価値には様々なものがあるということを提示するような形態を採ることが望ましいと考えられるところです(もっとも,それが公教育として行われる場合には,特定の価値観の押しつけにならないような配慮が求められると思いますが。)。堺先生がご指摘されるように,わが国の道徳教育が「抑制的に」行われていることには理由があるものと思います。

 他方で,上記のような点は,法教育についても指摘され得るところです。「自由で公正な社会」を維持するためには,法や社会制度を整備するだけでなく,それを支える有徳な市民が必要であるとすれば,法教育(あるいは,吉村先生が紹介された英国シティズンシップ教育)が市民による公共的な事柄への積極的な参加(クリック・レポートにいうactive citizenship)を重視することには理由があるものと思います(W.キムリッカ著,千葉眞・岡﨑晴輝ほか訳『新版現代政治理論』〔日本経済評論社,2005年〕414頁以下参照)。

 しかしながら,公共的事柄への積極的参加を過度に強調して「政治的生を善き生」だとする価値観を教え込むものになれば,前記のような法教育の前提にある考え方と対立・矛盾するおそれがあります。また,そこまで極端な例でなくても,「リベラル・デモクラシーの諸価値とはいえ,一定の諸価値を教え込むことは,リベラリズムに反する信念をもつ者の思想・良心の自由を侵害するのではないか」というリベラリズム教育の矛盾(あるいは,吉村先生の紹介された「民主主義のパラドックス」)も指摘されるところです(巻美矢紀「公教育における平等と平等における公教育の意味」奥平康弘・樋口陽一編『危機の憲法学』〔弘文堂,2013年〕321頁以下参照)。この点は難しい問題ではありますが,吉村先生が紹介されたような英国シティズンシップ教育の例などを参考に,理念的・抽象的なレベルだけではなく,具体的な教育内容及び方法のレベルで法教育のあり方を検討していくことが必要であり適切であると思います。

道徳教育と法教育における「法と道徳」の具体的な取り扱い

 次に,道徳教育及び法教育における「法と道徳」の具体的な取り扱いについて,何点かコメントしたいと思います。

 堺先生は,道徳教育の側から,道徳教育の教材が「ルールは少ない方がよい」というメッセージ性を有していたり,「心情主義」的に問題を解決する方向に導いたりするという傾向があることを課題として指摘されており,これを改善するために法教育との連携への期待を表明されております。

 ここでは,学校のクラス内などの比較的少人数の集団内では,各人の「心がけ」や「思いやり」で解決できる問題もあるでしょうし,それが望ましい場合もあるかもしれませんが,より大きな集団の中で様々な利害や価値観を有する人々の間に生ずる対立・紛争を公正に解決するためには,各人に平等に権利や義務を割り当てるルールを作ることが必要になると思います。そのようなルールの役割や意義,あり方について考えることは,法教育として重要なことであり,道徳教育と関連付けながら行われるべきものと考えます。その際には,「道徳」と対比した場合の「法」が,単に強制力や制裁を背景とした威嚇によって人々の行動を動機づけようとするだけのものではなく,先述のような「正義」や「公正」という価値の実現に関わっているのだということを理解してもらうことが重要であると思います。

 また,教育方法の面では,三浦先生の経験に基づくご指摘にあったように,児童・生徒は,基本的には同質的で,同調性を求められるような集団の中で生活していると考えられるのであり,異なる考え方や価値観が深刻に対立するにもかかわらず協力して行動する必要があるというような場面に直面することは少ないのではないかと思いました。三浦先生のご指摘のように,そのような場面を意図的に設定することが,教育としては必要であると思います。

 他方で,社会科・法教育の側から「道徳」を扱う場合には,中平先生のご報告にありましたとおり,法規範と道徳規範の命ずる内容が,(例えば「人を殺してはいけない」という部分では)重なり合ったり,(法が「車は左側通行」と命じ,道徳が「お世話になっている人にあいさつをする」という部分では)無関係であったり,あるいは時には矛盾したりするという面での対比もさることながら,なぜ法と道徳とでそのようなズレが生ずるのかということを考えることが必要であると思います。「道徳的には悪いと考えられる行為なのに,なぜ法では処罰されていないのか」とか,「道徳的に善いと考えられる行為を法で強制することはできるのか」というような問題を考えることが,法の基礎にある価値や法的なものの考え方の特質の理解のために重要であると思います。

 最後に,法と道徳の関係について,中平先生の「法は守るべきという道徳もある」というご指摘は,悪法も含む法一般に対する「遵法責務」問題につながるものであり,また,道徳教育において「公徳心をもって法やきまりを守る」ことや「遵法の精神」という内容項目をどう教えるかという点にも関わる重要な問題提起であると思います。これは大変難しい問題であると思いますし,私自身も理解が不十分で正面からコメントすることはできませんが,少なくとも「悪法」(と各人が考える法)を前にして各人がそれぞれ正しいと考える行為をして良いとするのであれば法の権威性が失われて対立・紛争を解決するという機能を果たし得なくなるということ,他方で現にある法が常に正しいとは限らないので,法を変えていくということも必要である(その方法としては,司法の場における一般条項の援用や違憲立法審査権の発動を求めること,立法府への法改正の働きかけなどが考えられます。)ということは,教える必要があるのではないかと思います。