法と教育学会第2回学術大会(その2)

 2011年9月4日の法と教育学会第2回学術大会報告のつづきです。今回は,川本隆史先生の基調講演「正義とケアへの教育――たえずロールズとノディングズを顧みつつ」についてです。教育哲学に関係する難しいお話で十分に咀嚼できておりませんが,いろいろと気づかされることがありましたので,備忘のために記したいと思います(なお,記載にあたっては川本先生の発表原稿を参照させていただいておりますが,当日の発表を正確に再現するものではありません。)。

 川本先生は,社会倫理学の分野において,正義とケアとの統合(正義だけでなくケアも)をめざして研究を進めてこられたところを踏まえて,「ロールズからギリガンヘ」,「ギリガンからノディングズへ」,「ノディングズから再びロールズへ」という筋立てでお話を進められました。

 

 「ロールズからギリガンへ」では,コールバーグが思春期の男性を調査サンプルとして確証した3水準6段階の道徳発達理論に対する発達心理学者キャロル・ギリガンの批判が取り上げられます。ギリガンの批判は,コールバーグの道徳発達理論は,実証的かつ思弁的なものであり,男性の目線での発達モデルであって,発達段階を測るものさし自体にゆがみがあるとするものです。ギリガンによれば,コールバーグが被験者に提示する「ハインツのジレンマ」とその理由付けの分析は,男性中心的な「正義の倫理」に基づくものですが,女性の被験者においては,それとは異なり,ジレンマの中に前後の文脈の考慮やコミュニケーション(の失敗)を見て取る「ケアの倫理」が見出されます。「正義の倫理」が,自己と他者の対等性を前提にものごとがフェアに運ばれることを人間関係の理想とするのに対し,「ケアの倫理」においては,誰もが応答・包摂され,誰も置き去りにされたり傷つけられたりしないということが理想であるとされます。政治哲学者セイラ・ベンハビブは,このようにギリガンが見出した女性たちのもうひとつの声(different voice)が,道徳理論において過小評価されてきなのはなぜか,私たちの文化における支配的な道徳がどのように女性たちを黙らせてきたのかを解明することにより,一般化された他者(個性や具体性を捨象された他者=正義の倫理が前提とする他者)と,具体的な他者(ケアの倫理が対象とする,具体的な差異を持った他者)を統合して把握する見方(正義の倫理とケアの倫理の統合)へと移行できるのではないかとの希望を示しています。

 

 「ギリガンからノディングズへ」では,ギリガンを離れて,教育哲学者ネル・ノディングズ(『学校におけるケアへのチャレンジ(The Challenge to Care in Schools)』(邦訳タイトルは『学校におけるケアの挑戦――もう一つの教育を求めて』))の検討に移ります。ノディングズは,学校の第一の任務は子どもたちをケア(care for)することであるとしています。ここで名詞(care)から動詞(care for)への転換が重要であり,”A care for B”は,ケアする者とケアされる者の相互性(reciprocity)を含意しています。ノディングズは,リベラル・エデュケーションは狭い範囲の人間の能力しか活用しない不適切なものであり,これに代替するものとして,自己→内輪→見知らぬ人や遠く離れた他者→動植物・地球→人口の世界→理念とケアリングを拡げていく,ケア中心の教育・学校制度のヴィジョンを提示しています。

 

 「ノディングズから再びロールズへ」では,ノディングズが『スターティング・アット・ホーム』(邦訳なし)で提示したjusticecaring aboutcaring forという依存関係を見た上で,ロールズ『正義論』の第3部に目が向けられます。ロールズは『正義論』第3部において,コールバーグらを援用した「道徳性の発達」の3段階説(AuthorityAssociationprinciple)から,道徳心理学の3法則(第1法則:親密圏(家族)での愛→第2法則:仲間同志での友愛→第3法則:正義にかなった社会制度に対応する正義感覚)を論じています。ロールズにおいても,抽象的な社会制度に対応する正義感覚の習得が,第1・第2法則に則った愛着・仲間意識の形成に依存させられています。また,これらの3つの法則のいずれの段階においても,私たちは,他の人々(あるいは制度)が自分の幸福を願ってくれているということを認識することで,お返しに,彼らの幸福についてもケアするようになるのであり,そこでは互恵性(reciprocity)の観念が重要な役割を果たしているとされます。

 

 以上を踏まえ,終わりに,法教育への示唆として,(1)動詞「決める」が名詞「決まり」に先行するという関係を「学びほぐす」(unlearn)こと,(2)法と教育に関わる諸概念の「脱集計化」(disaggregation)と当事者性の「脱中心化」(decentraion)を並行してていねいに進めること,(3)キテイ『愛の労働』の問題提起(「正義の三番目の原理」)を受けとめること,という3つの方向性が示されました。

 

 私の理解力ではご講演の内容を十分に酌み取ることは難しいのですが,最後の法教育への示唆の点についていうと,(1)の「決める」が「決まり」に先行するという点は,法教育におけるルールの学習の観点として,これまでも重視されてきた点であると思います。

 (2)については,脱集計化(disaggregation)はアマルティア・センの着想で,集計的に捉えられた指標や概念によるのではなく,その内部に潜む個々人の具体的な個性やニーズに目を向けることの重要性を説くものと思われます(「脱集計化」の概念が分からなかったので検索したところ,峯陽一「人間の安全保障と開発の哲学」国際問題603号15頁が見つかりました。)。他方,脱中心化については,ジャン・ピアジェの着想ということで,自己中心性を脱却することの重要性を説くものと思います。過度な一般的思考や,自己中心的思考から脱却することは,法教育においても重要であると思います。

 (3)が講演全体に大きく関わるところであり,ケアを必要とする人々の個性やニーズに目を向けたときに,正義の原理自体が修正される必要があるのではないかという問題提起ですが,この点は,法教育が受けとめる前に,政治哲学上の論争点として更に検討が必要かなと思いました(正義とケアの関係については,W.キムリッカ『現代政治理論』の第9章第3節で比較的詳しく論じられているのを発見しましたので,これから読んでみようと思います)。

 

 以上,大変苦しみながら一応まとめてみました……。

 

※追記

 一緒に司会をさせていただきました橋本康弘先生のブログでも大会について振り返られておりますので,ぜひご参照下さい。小学校の社会科の「同心円的拡大」という考え方の打破という今回のパネルディスカッションの意図についてもご説明されています。反面で,自分に関しては法や制度の領域の側に凝り固まっているなぁと感じました(綱森らしい,と言われている部分でしょうか??)。今回の大会では,同心円の中心付近(親密圏・身近な対人関係など)を「法」教育でどう扱うのか(「ケア」も含めて法教育の領域を拡げるのか,あるいは,法教育はあくまで法・制度の領域にとどまるのか,など)という問題が浮かび上がってきたように思います。

※追記2

 村松謙先生もブログに大会のレポートを書いていますのでぜひご覧下さい。