「法教育支援セミナー」大盛況でした。

 8月3日に開催された札幌弁護士会の「法教育支援セミナー」ですが,事前に申込みがあった41名のうち37名(うち小学校教員5名,中学校8名,高校17名,大学4名)にご参加いただき,企画した委員会メンバーも合わせると約50名となる大盛況となりました。お忙しいところご参加いただきました皆様,どうもありがとうございます。

 以下ではセミナーの内容について若干ご紹介いたします。

 最初は橋本康弘先生による講演「学校教育における法的リテラシーの育成-新学習指導要領のねらいと実践の具体-」です。ご講演の概要につきましては橋本康弘先生のブログにも紹介されております(橋本先生,大変ありがとうございます)。以下,個人的な感想です。

 

 学校教員の皆様にとって最もご関心のあるところは,新学習指導要領のキータームである「対立と合意」「効率と公正」「幸福,正義,公正」についての説明かと思います。橋本先生には,これらの概念について例をあげて分かりやすくご解説頂きました。

 

 「効率」については,経済学にいう「パレート効率性(誰かの効用を犠牲にしなければ他の誰かの効用を高めることができない状態)」を指すものであることをご指摘いただき,個人的には「効率と公正」の関係をすっきり理解することができました(この点,橋本先生に講演でご紹介頂いた蓼沼宏一『幸せのための経済学--効率と公平の考え方』(岩波ジュニア新書)が参考になるようです)。 

 パレート効率性は「状態」に関する概念であることから,パレート効率的な状態は複数存在し得る(「誰が」効用を享受するかは問わない)ことになりますし,また,そこに至る過程や手続についても直接問われないことになります。また,誰かの効用を高めるためには誰かの効用を犠牲にする必要性がある場合には,パレート効率性は判断の基準とすることができません。このような場合に必要となるのが「公正」の概念(結果の公正・機会の公正・手続の公正)であるという関係になるのだと思います。

 

 「対立と合意」については橋本先生に質問しそびれてしまったのですが,学習指導要領の解説は,問題や紛争などの対立が生じた場合「多様な考え方を持つ人が社会集団の中で共に成り立ちうるように,また,お互いの利益が得られるよう,何らかの決定を行い,『合意』に至る努力がなされている」と論じており,ここでいう「決定」というのが全員一致の決定を意味するものなのか,それとも,そうではない決定(多数決や司法的裁定)を含むものなのかが明確でないように思いました。

 (例えば学校等における「ルールづくり」などにおいて)「効率」や「公正」の原理に導かれて全員一致の「合意」を志向するという場面も重要ですが,全員一致の合意が成立し得ないところでも何らかの共同的決定を下す必要があるという場面(現実の政治や司法が扱うのはこのような場面です)についても考える必要があるのではないかと思いました。

 

 「幸福,正義,公正」についてですが,講演では,これは特定の「正義」論を教え込むものではなく,「正義」に実体を持たせないことが重要だと強調されておりました。学習指導要領の解説でも「ここでいう『正義』とは,何か特定の内容があると考えるのではなく,何が社会にとって正しいのかということについて考えることが『正義』について考えることであるととらえているのである」とされています。

 もっとも,ここで「正義,公正」と並べられていることからするとジョン・ロールズの「公正としての正義(justice as fairness)」が想起されます。このように「公正」として解釈される「正義」の概念は,特定の「幸福」ないし「善」の構想に基づかない(つまり,自分にとっての「幸福」を他人に対して「正義」として押しつけない)というところにその特徴があるのだと思います。そうすると,学習指導要領が「正義,公正」と並べた上で「『正義』について考える際に,必要なとなってくるのが『公正』である」(解説参照)とした意味は,特定の実体的な正義の原理(ロールズの正義の二原理を含む)を排しているのみならず,上記のような基本的な考え方を強く示したものとも読めるのではないかと思いました(深読みでしょうか)。

 

ということで,長くなってしまいましたので,ワークショップと質疑応答については別の機会にご紹介したいと思います。

 

※追記

「対立と合意,効率と公正」及び「幸福,正義,公正」の問題は通底しており,それは立憲主義の考え方を形作るものです(法教育研究会の「報告書」の「憲法の意義」に関する部分がまさにこれを扱っています)。

 

 私が「パレート最適」という言葉を知ったのは長谷部恭男『権力への懐疑-憲法学のメタ理論』(日本評論社,1991年)を読んでのことだったと思い,改めて同書を見返してみましたが,上記との関連で以下の部分が大変示唆的だと思いました。少々長くなりますが引用します(太字による強調は引用者による)。

 

「…民主主義的政策決定の欠陥は,より基本的なところにも存する。前述したように,多数決による投票は,良好な条件の下ではパレート最適の決定をもたらすはずであるが,このことは,決定以前の状態と比べて,全てのメンバーにとってより良い状態がもたらされることを示すわけではない。つまり,投票後の決定はパレート最適であるかも知れないが,それは,投票前の状態と比べて投票後の決定がパレート優位にあることを意味しない。

 社会における全成員が,公共財について同一の限界評価曲線を共有するのでない限り,決定前と比べて不利益だと考える成員が現れることは避けがたい。そして,全成員の一般意志が同一である確率はほとんどゼロに近いであろう。したがって,多数決による決定の執行には少なからず強制の要素が伴うことになる。政府の保障する人権の範囲,保障の制度,費用負担の設定は,典型的な公共財の供給問題であり,市場ではなく,投票によって決定されなければならない。ところが,多数決による決定は,全員一致によるので無い限り,初期の状態よりも不利益だと考える少数派を生み出す。したがって,マクシミン・ルール(maximin rule)に従う合理的な人間は,一種の保健として,多数決によっては害しえない人権が予め保障されることを望むであろう。かくして,すべての決定が全員一致でなされることを期待しえないような社会に加入する人間は,完全な権力の民主化にもかかわらず,社会全体の政策目標によっては,その侵害を正当化しえないような近代的人権の留保を求めると考えられる

 また,第6章で述べるように,個人の自律性という原理を真剣に受け止めて,各人が人生において何を価値あるものとし,何を善として生きるかは,それぞれが自ら判断すべき事柄であるとの立場をとるならば,したがって,社会の構成原理である正義の問題と個人の善の問題とは独立だとの立場をとるならば,後者は,公共的決定とは独立の領域として個人に留保されるべきだとの考え方が導かれるであろう。……したがって,たとえ社会の全成員が同じ先天的,後天的資質を有するとしても,善き人生とは何かについて異なる考え方を持つとすれば,立憲主義的人権は,なお多数決によっては侵害しえない領域として保障されねばならないはずである」(91~92頁)

the priority of the right over t少数者にも配慮しながら社会のhe good