法教育:法教育と憲法の関係

 先日,学校教員の研究集会で弁護士会による法教育の取り組みについて紹介させて頂きましたが,その際に法教育と憲法との関係についてのご質問を頂きました。そのような大きな問題についての整理された回答は全く持ち合わせておりませんでしたが,その後,少し調べてみたこと,考えたことを備忘のためにメモしておきたいと思います。

 ご質問を正しく理解できているか自信がありませんが,私なりに理解したところでは,法教育の取り組みにあたって,一つは旭川学テ訴訟判決が憲法26条,憲法13条という二つの条文を挙げて論じたところが基礎に据えられているかということ,もう一つは近代立憲主義の考え方,すなわち国家が守るべきものとしての憲法ということを伝えているかということについてご指摘を頂いたものと思います。

 まず第1の点について,あらためて旭川学テ訴訟判決を確認してみますと,次のとおり論じられています。

……殊に個人の基本的自由を認め,その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては,子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入,例えば,誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは,憲法26条,13条の規定上からも許されないと解することができる……

 この点に関しては,先日の「法と教育学会」設立総会のパネルディスカッション「法教育のミニマム・エッセンシャルズを問う」においても,法教育の内容・方法面における「個人の尊重」の重要性が複数のパネリストによって指摘されているところであり,法教育が(「正しい」ものであれ「誤った」ものであれ)法的な知識を一方的に押しつけるものではなく,「子どもが自由かつ独立の人格として成長すること」に関わっていくべきものであることについては,広く賛同が得られやすいのではないかと思います(法教育フォーラムのウェブサイトにパネルディスカッションの紹介があります)。

 他方で,第2の点については,近代立憲主義の意義や理解とも関連していろいろな考え方がありそうです。

 憲法学の斎藤一久教授は,「社会に出たら憲法を守らないといけないんだ。学校のルールを守るのはその練習なんだよ」と教壇に立ったらぜひ教えたいと書いた学生のレポートを紹介した上で,このような考え方は,憲法学者からは「近代立憲主義の歴史を知る者の目から見れば,冒涜的なまでに明らかな誤りを意味する」(西原博史『自然と保護』223頁の言葉)との批判を受けるだろうとしています。

 他方で多くの国民は,憲法について,他の法規範と同様に国民が守らなければならないものと素朴に理解し,私人間の差別やいじめなども人権・憲法問題となると考えられており,憲法学と国民との間の憲法に対する国民の肌感覚の溝は深いとされます。

 そして,このような状況の下では,「国民の憲法を守る義務」という論点に関しては「憲法学と憲法教育とを切り離して考えざるを得ない」とされています。(斎藤一久「法教育における憲法教育と教育学−憲法学は非常識か?」法セミ662号29頁以下)。

 ここでは憲法学における「近代立憲主義」の考え方を法教育においてそのまま貫徹することについて慎重な姿勢が示されています。

 他方,上記論文でも引用されている佐藤幸治教授の論文(「日本国憲法の保障する[基本的人権]の意味について−[法教育]との関連において」大村敦志=土井真一編著『法教育のめざすもの』所収)は,次のように述べて,近代立憲主義への「回帰・純化」を図ろうとする憲法学説に対して,法教育の場面を想定しながら見直しの必要性を指摘しています。

憲法が保障する人権」と「理念としての人権」があって,[憲法が保障する人権」は君たち相互の関係,国民の相互間の関係には全く関係がないことだ,いわゆる部落差別というのは実は憲法上の問題ではない,というような説明の仕方では,子どもたちに果たして迫力を持って「基本的人権」を教えられるかですね。

 他方,間接効力説のような説明ではどうか。それは法律家の中の技巧的な説明の仕方ではないか。中学や高校の段階でわかってもらえるか,心許ないように思われます。(109頁)

 上記の指摘は法教育の観点からなされたものですが,憲法学の内部でも近代立憲主義の意義や憲法上の人権の効力の問題は重要な争点となっており,「憲法学の常識」対「国民の常識」というような単純な整理ができない状況にあるように思います。

 例えば,山元一教授は,西原教授が「国民が遵守すべき憲法。この憲法理解は,近代立憲主義の歴史を知る者の目から見れば,冒涜的なまでに明らかな誤りを意味する」として最近の改憲論を「ばっさりと切り捨てた」のに対して,そのようにして豊かな市民社会構想の可能性を無くしてしまうことは,憲法理論構築のために望ましい選択肢なのかと問いかけています。

 上記論文では,憲法学が前提にしてきた<Narrativeとしての近代立憲主義>から解放された共和主義憲法理論の立場から,「<公なるもの>への個の埋没を称揚することは現代社会のあり方と全く相容れないとしても,例えば裁判員制度を素材として,政治的参加や公事に対する参加義務を,個人の尊重を国政の最大の目的して掲げる憲法と調和しうるような節度ある仕方で憲法理論の中に明確に位置づける必要はないか,が問題となろう」という課題も提起されています(「憲法理論における自由の構造転換の可能性−共和主義憲法理論のためのひとつの覚書−」長谷部恭男=中島徹編『憲法の理論を求めて−奥平憲法学の継承と展開』13頁以下及び慶應法学13号83頁以下)。

 議論の全体については私の理解の及ぶところではありませんが,少なくとも,憲法学において,立憲主義の意義や理解の仕方とも関連して,個人の尊重と裁判員制度への参加義務が憲法上どのような関係に位置づけられるかという問題が提起され議論されていることは,個人の尊重や裁判員制度について語る「法教育」の側も心に留めておかなければならないことではないかと思います。

 ということで,とりとめの無いメモでした。

 「法教育と憲法との関係は?」というご質問に対しては「まだまだ勉強不足ですので,これからよく考えさせてください。」という状況です。