法教育:裁判員制度と法教育

 東京地裁において裁判員裁判で初めて死刑が求刑される事件が係属しており,注目を集めています。被告人を死刑に処すべきか否かを含めて,刑の重さを考える(量刑)ということは,ときに有罪・無罪の判断以上に難しい問題であると思います。

 刑事裁判における有罪・無罪の判断は事実の探求の問題としての側面が強いと思いますが,量刑においては,事実の探求もさることながら,犯罪事実を前提としてどのような刑を科すべきかという評価の問題が大きくなります。その際には,正義や平等,公正という概念が重要な役割を果たすと思います。

 そこでは,犯した罪の重さに応じた刑を科すことが正しいという考えもあれば,罪を犯した人が反省し改善する可能性に応じた刑を科すことが正しいという考えや,これから罪を犯すかも知れない人が犯罪を思い止まる程度の刑を科すことが正しいという考えもあります。

 他にも,他に同種の事件を起こした人との刑の均衡も無視することはできません。法の下における平等の考え方は,法適用の平等を要求します。法の適用として行われる量刑は,その事件については一回きりのものであるとしても,原則的には,過去の量刑と整合し,また,未来の量刑を指導するような普遍的な考え方に基づいて正当化されなければならないと思います。

 以上で問題が尽くされている訳ではありませんが,量刑について考えるには少なくとも以上のような問題は検討せざるを得ないと思います。

 

 裁判員制度では刑事裁判への「市民感覚」の反映ということが言われることもあるように思いますが,裁判に参加する前からの「市民感覚」がそのまま裁判に反映されるということは,裁判員制度の想定するところではないと思います。

 司法制度改革審議会の意見書は,市民が刑事裁判に参加する裁判員制度の意義として,裁判官と裁判員が責任を分担しつつ,法律専門家である裁判官と非法律家である裁判員とが相互のコミュニケーションを通じてそれぞれの知識・経験を共有し,その成果を裁判内容に反映させるという点にある」としています。ここでは,「相互のコミュニケーション」(それは知識や経験だけではなく「何が正しいか」という問題にも関わると思います)によって,法律専門家と非専門家の双方がこれまで有していた知識・経験や「正しさ」の観念をより豊かなものに変容させることが想定されているように思います。

 

 現在の裁判員制度が上記の目的を達成するように適切に設計されたものか否かという問題は別に検討する必要がありますし,裁判員制度のためだけに法教育があるわけでもありませんが,法律専門家と非法律家である市民との「相互のコミュニケーション」という考え方は,法教育においても重要な視点であると思います。

 そういった考え方から,先に実施した法教育イベント「法カフェ」の報告書には次のように書かせていただきました。

 

どのようなテーマ・題材を取り上げる場合でも,単に法や司法制度をテーマ・題材として取り上げれば「法教育」として成立するということではないことには留意が必要です。法務省法教育研究会の「報告書」が法教育を「非知識型」「思考型」「社会参加型」の教育として特徴づけているように,法教育は現在ある法や司法制度の知識や価値を所与のものとして教え込むというものではありません。法教育は「法」についての教育であるという以上に,題材へのアプローチの仕方において特色があるといえます。私見では,法教育においては,法律専門家ではない一般市民の日常的な感覚や判断を一方の出発点としながら,他方で法律専門家の共有している法的な考え方や見方に触れることで,日常的な感覚や判断を法的観点から分析的・反省的に検討し直し洗練するとともに,そのようにして洗練された市民感覚を基礎として,反対に法やその背景にある価値観を批判的に吟味し直すという法律専門家と市民との間の双方向的な交流が極めて重要であると考えています。

 

 以上のような,法教育における相互コミュニケーションのあり方を考えるにあたっては,理系分野における「科学技術コミュニケーション」の取り組みからからヒントを得ることができるのではないかと思います。

 小林傳司教授は『トランス・サイエンスの時代』(NTT出版,2007年)において,ナノテクノロジーのあり方を審議するイギリスにおける「ナノ・ジュリー」の取り組みを紹介した上で,次のように述べられております。

 

こういった市民関与型のコミュニケーションにおいて,「誰が学ぶべき」なのだろうか。専門家は市民が学ぶことに驚く。しかし市民は専門家が学ばないことに驚く,と言っては言いすぎであろうか。啓蒙型の場合には明らかに,市民が学ぶことが前提である。しかし対話型あるいは市民関与型コミュニケーションの場合には,両方が学ぶことが求められている。それが「双方向性コミュニケーション」の意味である。単に市民から質問がでればいいというものではない。繰り返すが,市民の意見によって,科学者や行政も自らの意見を変える覚悟こそが大事なのである。(同上書67~68頁)

 

  上記の記述は「科学者」を「法律家」に置き換えて読むべきものと思います。

 これから法教育の活動を拡大していく際には,特に法律専門家の側の意識改革が必要ではないかと(自戒を込めて)考えるところです。